「本なんて読まなくてもネットで十分」の大間違い。“答え”を出さないことに意味がある
今の時代、立ち止まることが必要だ。
■読書にスピードはいらない
読書にスピードはいらない。
大量の情報を効率よく得るのが読書の目的になれば、速読法を学んだほうがいいということになる。
たしかに、仕事で情報を集めるときや、くだらない本を大量に裁くときには必要だ。
たとえば調べたいテーマ、「宇宙」でも「餅」でも「インド」でもなんでもいいが、関連書は山ほどある。
それを全部読んでいたら日が暮れるので、速読で読むべき本を決める。
書店や図書館で本を選ぶときには、一冊三分くらいで目を通せば十分だ。
速読にもいろいろあるようだが、私の場合、一ページを二つか三つのブロックにわけて、一枚の絵を見るようにして、流れを理解する。気になるワードが出てきたら、速読を落として一行くらい読む。
当然、頭の中で音読しているわけではない。読む本が決まったら、段落ごとに視線を動かし、内容をつかむ。こうして読むのにかかるのは一冊三〇分くらいか。
もちろんこれは、情報を集める際の読書についてのみ言えることであり、そんなものは、ある程度読書を続けるうちに自然に身につくものである。
速読は情報を得たり処理するためにしか使えない。
私は高校三年生のときに、英語の速読を覚えた。
公文がやっているSRSというシステムの教室に半年くらい通って、ストップウォッチを持って、大量の英文を読んだ。たしかに英語の成績はあがったし、ペーパーバック一冊くらいは読めるようになった。
しかし、だからといって、頭がよくなったわけではない。
日本語で書いてあろうと、英語で書いてあろうと、難しい本は相変わらず理解できないわけだ。
当たり前だ。
バカが英会話を習ったところで、英語をしゃべれるバカになるだけ。それと同じ。
きちんとしたものを速読すれば、害しかない。
500冊のくだらない本を速読する暇があるなら、五冊の古典的名著を熟読したほうがいい。
料理と同じで、きちんとしたものは、ゆっくり味わなければ意味がない。
レストランにいる時間にも意味がある。
ビュッフェや食べ放題に行き「元をとる」とか「コスパがいい」などと言いながら、むやみに腹をふくらませているのが現代人だ。
文学作品や思想書を速読しても意味がない。
これは映画を二倍速で見るのと同じこと。
テレビのニュース番組やハリウッド映画なら二倍速で見ても同じだろうが、名作を早送りで見るバカはいない。時間の流れを計算してつくった映画はそのままで見るべきだ。